再軍備の背景

我国の敗戦後、懲罰的意味合をもって日本の非武装化を画策実行した占領軍とマッカーサーが「吐いた唾を飲まされる」事態に陥ったのが昭和二十五年六月二十五日未明の北鮮軍の三十八度線越境に始まり、国境守備の韓国軍四個師団は総崩れとなり潰走し二十七日には首都京城が陥落して朝鮮動乱が始まった。

米軍貸与の海上警備隊艦艇

米軍貸与の海上警備隊艦艇

七月七日には国連軍総司令部が設置され、日本に駐留していた米第二十四師団が急遽派遣され、その他の陸海空部隊も続々と出動し日本の治安維持や防衛が手薄となり、隣国の激変は直ちに我国にも反映し、朝鮮半島とは一衣帯水の九州地方には厳重警戒命令が発せられ、一時は福岡県に空襲警報迄発せられた。

かくて朝鮮派兵による在日米軍減少と我国内及びその周辺の警備力の不足は、治安確保の為の警察力増強を痛感させられ、マッカーサーは日本の再軍備に入らざるを得なくなった。

奇しくも二十五年一月にマッカーサーは年頭声明に「戦争を放棄した日本の憲法は、高い道徳的理想に基くものであるが、相手側から仕掛けられた攻撃に対する自己防衛の犯し難い権利を否定したものでは無い。略奪を事とする国際的暴力が横行している限り、この高い理想も全世界から受け入れられる迄は、尚、かなりの時間がかかるものと考えなければ為らない」と日本の自衛力を承認していた。

米軍貸与の海上警備隊艦艇

米軍貸与の海上警備隊艦艇

かくて占領軍最高司令部は、政府に対して国家警察予備隊七万五千名、海上保安庁に現有保安力に八千名の増員を指令し、米軍貸与物資により昭和二十五年八月十日に警察予備隊として産声を上げたが、名称は警察予備隊であっても国警や地方警にその指揮権は無く政府直属の自衛軍としての発足であり、後に保安隊を経て昭和二十九年に自衛隊と改称され現在に至る。

一方保安庁は昭和二十年の終戦時日本の周囲の海はガラ空状態で、周辺海域で拿捕される漁船が後を絶たず、周辺海域の警備の為に沿岸巡視艇として、昭和二十二年八月に旧海軍の駆潜特務艇二十八隻が第二復員局から運輸省に引き渡され、昭和二十三年五月一日に運輸省の外局として海上保安庁が開設され、周辺海域の警備や戦時中に米軍により機雷封鎖された港湾の機雷除去にあたり、遠くは朝鮮半島の港湾の機雷除去まで行い、事故による殉職者も在ったと言う。

昭和二十六年頃、海上保安庁内にY委員会と言う日本海軍再建に関する日米合同委員会が設置され、旧海軍の山本善雄元少将が海軍建設を引き受けたが、元々海上保安庁は法律的に軍事的機能を保有する事に為っていないから、新しく作る組織し保安庁とは別建でなければ為らないと言う旧海軍側と海上保安庁側の思惑の相違もある中で、ここぞと言う根城も無いので取敢えずは海上保安庁内に昭和二十七年四月二十六日海上警備隊として発足した。

旧海軍側の思惑通り発足後、僅か三ヶ月で海上保安庁から分離され、同年八月一日に総理府外局に保安庁(現在の防衛省、旧防衛庁の前身となる)が新設され海上警備隊は保安庁に移管され、名称も警備隊と改められ、後の二十九年八月一日に海上自衛隊と改め現在に至る。

海上保安庁は現在は国土交通省の管轄下に活動し、海上自衛隊を含む三軍は防衛省管轄下に活動しており、有事の際の海上保安庁の指揮権は防衛省に移管される事となっているが、前述の通り現海上自衛隊が分離独立した際の軋轢を海上保安庁側が分離後五十九年を経た現在も持ちつづけている事が有事の際の指揮権移譲の障害と為らなければ良いが・・・・。

開設当初の海上警備隊の概要は、海上保安庁内に総監部を置き、呉、横須賀、舞鶴、佐世保、大湊等の旧海軍の鎮守府所在地に地方監部を置き当初の人員数は六千三十八人、装備は米軍貸与によりフリゲート艦十隻、上陸支援艦艇五十隻で編成され、所要の銃器砲火及び爆雷投下器を装備していた。

航空自衛隊は昭和二十九年七月一日に防衛二法の全面施行に伴い保安庁はその名称を防衛庁と改め海陸自衛隊の他に新たに航空自衛隊が発足した。

三自衛隊の中で最も遅れて発足し、敗戦後八年間の空白と列国空軍の飛躍的進化を遂げている中で、航空機の配備問題を除けば、米軍と言う見本があり米軍の積極的支援の元に、彼らの手には航空自衛隊建設予定計画書迄出来上がっており、最も順調に準備が進み発足した。

この様にして、海・陸自衛隊は旧海軍・陸軍の伝統を受け継ぎ、最も遅れて発足した航空自衛隊も旧陸海軍航空隊からの伝統連綿と受け継ぎ現在我国の防衛をその双肩に担っている。