北方領土

北方領土北方領土の起源は一六〇四年に松前藩主松前慶広が徳川家康より蝦夷地制御の黒印状を下付され、寛永十二年一六三四年には松前藩で蝦夷島を探検し、国後、択捉等北方の島々の地図が出来上がり、その後一六四四年に幕命により自藩領地地図を幕府に献上し、その地図中に郷帳(くるむせ)として三十八の島々が記載されており、これが徳川幕府編纂の「日本総国図」であり我国最古の北方領土記載の地図である。

その後、元禄十三年一七〇〇年に幕命により松前藩が千島樺太を含む蝦夷全図と郷帳(くるむせ)を作り、正徳五年一七一五年に「北海道本島、千島、樺太、カムチャッカ、は松前藩領で松前藩が統治している」と言う上申書を幕府に提出。

しかし、ロシア人による襲撃や日本人迫害が頻発する為、安政元年(一八五五年)に日露通好条約(下田条約)が締結され、択捉・ウルップ島間を日露の国境線と定め、樺太については此れまで通り国境線を設けない事とし、日露混在の地とし、これが日露間で初めての国際条約であったが、樺太に於ける日本人迫害は後を絶たず、明治八年一八七五年に樺太千島交換条約を成立させ、樺太の領有権を放棄し、全千島列島を日本領有とした。

こんなに近くに見えるのに行くことはできません

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明治三十七年一九〇四年に勃発した日露戦争の終結後、明治三十八年一九〇五年の日露講和条約(ポーツマス条約)により樺太の北緯五十度線を国境と定め、南樺太も日本の領有となったものであるが、大東亜戦争末期に旧ソ連は条約有効期間八ヶ月を残していた「日ソ中立不可侵条約」を一方的に破棄して対日参戦を果たし、昭和二十年八月十五日のポツダム宣言受諾に伴う停戦をも無視し、明くる九月二十日迄戦闘行動を続行し、これらの島々を略奪し現在迄不法に占拠しているものである。

【学校で教えない日露の歴史】

北方領土樺太真岡で多数の民間人が艦砲射撃で死傷し、十八歳から二十四歳迄九名の女性電話交換手が自決した、八月二十日の「真岡事件」、停戦により一旦は武装解除した日本軍が旧ソ連の攻撃により再び武器を取り戦った占守島事件、日本の全面降伏により復員させるべき軍人・軍属約五十八万人を朝鮮半島北部の収容所や極寒のシベリアに抑留し、過酷な強制労働の果てに約六万人を虐殺し、その被害者は現在に至るも遺骨の返還は無く、墓標すら無いままにシベリアの凍土に眠っている。

抑留者に与えられる一日の食事は、軟式野球のボール位の大きさの「高粱団子」が一個と飯盒の蓋に半分の塩水のみで、極寒の地シベリアで何らの暖房も無く、屋根や壁もトタン一枚と言う劣悪な環境に収容された挙句に過酷な強制労働を課せられた。

日露戦争のロシア人捕虜に対する日本の処遇はと言えば、代表的な松山収容所では、士官の帯剣を許可し、松山市一里四方の外出や温泉入浴を自由に許可し、運ばれてくる護送列車はドイツ製の車両で、捕虜達は全員一等客車、出迎えの職員は込み合う三等客車で、当時の松山市長は「捕虜は罪人では無い、祖国の為に奮闘して敗れた心情をくみ取り、一時の敵愾心に駆られて侮辱するような態度は慎む事」と言う訓令を住民に出し、博愛の精神を持って処遇した。

ボイスマン大佐以下九十八名の傷病兵が手当の甲斐なく、日本で死亡したが、その九十八名の遺体は丁重に埋葬され、松山城北方の小高い丘に、彼らの郷里のある北に向けて立てられ、現在も町の有志の人達の手により守られている。

当時の収容所で働く日本人看護婦について、来日した捕虜の妻ソフィア・フォンタイルの言葉は「彼女達は休む間もなく良く働いているが、疲れた様子を見せない。常に微笑みを忘れず、誠に礼儀正しい」、捕虜の一人F・クブチンスキーは「敵国でこのような優しい思いやりを予期したであろうか・・・医師や看護婦の献身的な心配りは真の人間愛の現れである。それは神聖にして不滅のもので、まさにキリストの愛と名付けられるものである。」と日記に記していた。

この様に博愛の精神を以てロシア人捕虜を処遇したにも関わらず、大東亜戦争終結後に我々の父祖達を不法に抑留し、ポツダム宣言受諾に伴う停戦をも無視した挙句に不法に略奪され、現在迄不法占拠され続けてきたものである事は明白である。

【北方領土に関する認識】

外務省辺りは北方領土奪還の抗議に対して「サンフランシスコ講和条約により北方領土の領有権を日本は放棄している」と発言する向きも居るが、そもそも旧ソ連は件のサンフランシスコ講和条約の調印批准は拒絶しており、同条約第二十五条にも「連合国で無い一国からも日本に存する権限権益を減損される事があっては為らない」とあり、連合国の定義として「今次大戦中日本国と戦闘状態にあり且つ本条約を調印批准している国」と明記され国際条約の常道である第三国を利せず害せずの論理に照らしてもロシアが北方領土を占拠している正当なる理由とは為らない。

仮に外務省筋の発言を百歩譲って考えても北方領土の島々は現在所有者の居ない「主無き島々」としか言い表し様が無い訳で、歴史的背景を考えればやはり日本の領有と言うのが筋であろう。