清の属国「李氏朝鮮」

支那の国王や使者を迎えた恩迎門

支那の国王や使者を迎えた恩迎門

南北朝鮮は日本に対して過去の植民地支配云々と言うが「日韓併合」を植民地支配と言うならば併合以前の李氏朝鮮は「明」以降最後の清王朝迄、支那の植民地若しくはそれ以下の存在であったと言える。

朝鮮と言う名称の由来は、李氏朝鮮初代の王「李成桂」が明王朝に御伺いを立てて決定した名称で、意は朝(貢ぎ物の意)鮮(少なしの意)で貢ぎ物の少ない国と言う意味であり、支那の朝廷が朝鮮王朝の王妃や王太子の廃立の決定権を掌握しており、自国で流通する貨幣を鋳造する権利すら持たされていなかった。

写真の「恩迎門」は支那の属国時代に支那の国王や国王の使者を出迎える為に建設されたもので、ここに国王以下朝鮮王朝の高官が「三跪九叩の礼」(日本式に言うと土下座の意)で出迎え、技芸演舞や酒食で供応したと言い、この事からも支那と朝鮮の身分関係が容易に推察できよう。

未開の部落を思わせる併合前の朝鮮の風景

未開の部落を思わせる併合前の朝鮮の風景

この様な支那の属国を虎視眈々と狙っていたのが当時南下政策を取っていた「帝政ロシア」であり、朝鮮が支那からロシアの手に渡ってしまえば、日本は喉元に匕首を突き付けられたも同然であり、当時の日本は日清戦争の戦勝後に、清朝支那から独立させた李氏朝鮮を併合した。

当時の朝鮮では国民の識字率が数パーセント、小学校も併合前は全土で百校程度と極めて少なく、李氏朝鮮時代から人間とは見なされず「姓」を持つことの許されなかった「奴婢」と呼ばれる階層の子供達は学校に通う事すらできなかった。

衛生状態も極めて不良で劣悪な生活環境で国民は生活しており、ソウルの「南大門」付近も併合以前は、日本で言うならば終戦直後の焼野原に「南大門」が聳え立っている様を思い浮かべて頂ければ良いと思う。

実際に清朝支那から独立を果たしたと言っても、当時の朝鮮の国土は荒廃して慢性的な食糧不足で、国家を運営する能力も備わっておらず、言わば倒産寸前の企業の如き状態であった。

併合前の風景。右はソウル南大門

併合前の風景。右はソウル南大門