慰安所は先進的施設

娼館は日本で昭和三十二年の売春防法施行迄は公式の商売で、起源は徳川幕府開闢間もない元和二年に、庄司甚右衛門と言う浪人が「淫売」「夜鷹」を取り締まらんが為に、幕府に願い出て日本橋葦屋町の二丁歩を借り受け営業を始めたのが「吉原」で、当時低湿地であった周辺一面に「葦」が群生していた為に「葦原」、「葦」は「悪し」に通ずると一字を変え「吉原」とした。

日本以外の国でも最近迄「公娼」を維持していた国もあり、件の南朝鮮も同様の存在であり、当時は公認された商売で何らの問題も無かった筈である。

戦地での兵士に拠る「強姦」「略奪」は常であり、大東亜戦争末期の満州でもソ連兵に拠る婦女子の暴行は数知れず、その大半は煩悩を消化したら証拠隠滅の為に殺されていた。

日本でも「切り盗り強盗、武士の習い」等と町民に揶揄された言葉が残っている位であり、当時の新興国家日本としては、兵士に拠る「略奪」「強姦」をきつく戒める必要があり、此等の戒めを通達した文書も現存しており、前線での婦女子に対する暴行を防止する観点から、当時公認されていた「娼館」を前線に設置したものである。

前線に設置された慰安所

前線に設置された慰安所

これは現在の世情に合わせた売春の賛否は別物として考えれば、進駐した国で兵士に拠る婦女子の暴行を防ぐ為に当時の日本人が考えた先進的考えを持った施設と言える筈である。

前線に設置された「公式娼館」の賛否を現在の法律や世論の常識を持って論い、謝罪や賠償の範疇に収めようとするのは余りに強引で無理が在ろうと言うものでは無かろうか。

内地の遊郭から志願した日本人も居た位で、慰安所・慰安婦に何らの問題無しと考える。