日本に於ける右翼と左翼の源流

右翼と言うと現在は「反共」や「国体護持」「反露」「反中」を唱え街宣車で市中を騒がせる政治団体を指し、古くは反政府的立場の国家主義団体で「浜口首相暗殺未遂事件」「血盟団事件」「五・一五事件」「二・二六事件」を引き起こし、左翼と言えば「共産党」や以前に国内を騒がせた極悪の「極左暴力集団」として一般に認識されているが、右翼・左翼の語源は曖昧で、この語源はフランス革命後の一七九二年九月二十日国民公会の日に遡る。

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会場の演壇から見て、左翼の高い場所に山岳派(モンターニュ派)が位置し、右翼にジロンド派が位置し、中間派は中央に位置し、山岳派は過激派であり、ジロンド派は穏健派であった事から過激派=左翼、穏健派=右翼とされたと言うものである。

当初両派は、旧制度・貴族制度及びカトリックとは絶縁しており、出身階層に於いても大差は無く、大部分がブルジョアであり客観的には同一の立場に立っていた。

彼らの場合、同一階層出身であり、階級闘争としての対立では無く、革命に対する相互の認識の違いから両派は抗争を繰り返す結果となったもので、国民公会から今日的「右翼」の話に持って行くには少々無理がある。

一七九二年フランス革命時の国民公会に於いて言葉が生まれ、日本国内に於いては大正から昭和初期にかけて「日本主義」を基調とする「国家主義」運動をする団体・個人を総称する言葉として使われる様になり、今日に至るものである。

右翼日本の右翼思想の源流は、徳川幕府開幕の時期に遡る。

徳川家康は儒教による国家統治を考え、朱子学を導入したがこの朱子学には「尊皇斥覇」(そんのうせきは)の思想があり、開幕当初から林道春等によって「公武合体論」が論議された。

やがて思想研究は古学・国学・水戸学(実学)へとすすみ「尊皇攘夷思想」に凝集されて行き、その思想をバックボーンに王政復古の倒幕運動へと発展する。

明治政府は敏感に国際情勢を洞察し、尊皇攘夷から尊皇開国、欧化主義へと向かうが、政府主導の欧化主義に対して国粋保存運動が勃興し、政社と結び「民撰議院設立」運動を皮切りに反政府運動を展開し、やがて日清・日露両戦争を通じて愛国運動として進展し、国家主義(右翼)団体を生むに至る。

以上が右翼の源流についてであるが、日本に於いて右翼に対して左翼と言う表現になったのは大正十一年に遡る。

これは戦前の日本共産党の源流とも言うべき「コミンテルン」日本支部を立ち上げた年で、翌年には特高(特別高等警察)の一斉検挙に遭い組織は一旦壊滅したが、それを知ったコミンテルンは日本支部関係者を上海に呼び出し、あの有名な「徳球」こと徳田球一を中心にソ連通商部代表を隠れ蓑に来日したコミンテルン対日指導部員ヤンソンの指導で大正十五年に五色温泉で再建党大会が開催され、以降そこから派生したシンパを含めて右翼に対して左翼と称されるようになった。