痛みを知らない若者

人の迷惑を顧みず我物顔で走る暴走族の皆さん達

人の迷惑を顧みず我物顔で走る暴走族の皆さん達

昔日は、何処の町内にもガキ大将と言うものが居り、苛められたり苛めたりと言う「喧嘩」の中から痛みを知り、己の痛みを知るが故に例え「喧嘩」でも限度と言うものを自然に体得していったものであるが、今日では「家」に篭りゲームなるものに熱中している者が多く「痛み」と言う事を知らない若者が多い。

このゲームなる機械はスイッチ一つで殺した人間が生き返ったり、殺したりと言う事をいとも簡単に表現してくれる為に、人間も同様と誤認しているものであろうか。

今ひとつ言えるであろう事は、家庭内で生き物を飼っていて死んだ時であるが、「生在るものに必ず訪れる死」と言うものをしっかりと教えない親達ではないか、子供に死体を見せるのは残酷だとか言う理由で目に付かぬように処分する事には異議を感じる。

生と死を通じて「生命の尊厳」と言うものを小さい頃から教えないが為に「キレル」とか「気に食わない」「誰でも良い、目立つ」と言ういとも簡単な理由で他人を傷つけ殺傷してしまう者達は前述の道徳教育の欠如した偏向的教育の産物であると同時に己の痛みを知らぬが為に他人の痛みも判らない、加えて生命の尊厳と言うものを認識していないが為に起こる犯罪であろう。

今ひとつ欠如しているものに「連帯意識」と言うものも在るのでは無かろうか、昔日のガキ大将率いるグループ然り、不良グループと言われるものしかり、彼らの中には一つの連帯意識と言うものが在り、長上に立つものは下に居る者達を束ねると同時に守ると言う役目も果たしていた様に思え、上に居る者は下に居る者達を守るが故に長上者を慕いついて行くと言う連帯意識が自然と発生していたのでは無かろうか。

家庭にして然り、前述の「優しいパパ達」は子供を殴る事をしないが故に、前述の原因と相乗して痛みを知らない若者を輩出するのでは無かろうか、此処で殴ると言うのは「虐待」と言う目的を持っての行為ではなく、「教育的指導」を目的としたものと解釈して頂きたい。

この様な環境の変化に伴い、痛みを知らぬばかりか上下の礼節、礼儀、友情と言う自然に体得していった事もその体得すべき機会を無くして礼儀・礼節を弁えず友情を理解せず「利己主義」に陥り孤立して各個バラバラになってしまうのでは無かろうか。

昔日の不良と呼ばれていた若者達の方が礼儀正しく節を弁えていると言うのも奇態な話である。