国歌「君が代」の起源

国歌の生みの親大山巌元帥

国歌「君が代」の起源は非常に古く、原典と言うべきものは一千年以上も昔から宮廷で「賀歌」(お祝い歌)として歌い継がれてきたもので、捧げる相手の不老長寿を願う意味が込められている。

我国で最も古い和歌の本「古今和歌集」の「賀歌」の部に「君が代」の元歌が現れ、薩摩琵琶歌の一節にも歌われており、多くの史書や古典にも現れており、庶民の間で歌われている「浄瑠璃」「常磐津」「長唄」「舟歌」から「門付け歌」(家々を一軒一軒廻り、門口で歌や技芸を見せ何某かの金銭を貰う人々を指す)にまで歌われて広く親しまれていたものである。

楽曲と国歌としての起源は明治二年に英国の軍楽隊長ジョン・ウイリアム・フェリントンが来日した際に、後に元帥となる大山巌が「日本には国歌が無いのか」と談じ込まれ、彼が幼少時から愛唱していた「薩摩琵琶歌」の楽曲「蓬莱山」の一節に詠まれている「君が代」を示し、軍楽隊で演奏したものが国歌の始まりとされている。

後の明治十三年に宮内省雅楽部の村広守らとドイツ人エッケルとの協力により現在の楽曲が出来上がり、その後国歌選定作業が行われた明治二十一年の閣議決定により正式に「国歌」として制定され、「君が代」の歌詞と曲譜を諸外国に寄贈し、同時にこれが日本の国歌であると通達を行い、正式に国歌と制定された。

歌詞の意味としては「君が代」の「君」とは貴方・私の君と言う意味では無く、「天皇陛下」や「皇室」を指し広義には天皇陛下を象徴として仰ぐ日本を意味し、細石(さざれいし)とは細かい砂礫を指し、細かい砂礫が幾重にも堆積し再び大きな巌となって苔の生えるまでと言う意味である。

天皇陛下を象徴として仰ぐこの国は、小さな砂礫が幾重にも堆積して再び大きな岩となり苔の生える迄、千年の後も何千年の後も永久に栄えるであろうと言う歌詞の意味である。

薩摩琵琶

薩摩琵琶

鉄道唱歌の第六十四番に「七たび生まれて君が代を守ると言いし楠公(楠木正成の事)の碑高く湊川(湊川神社を指す)、流れて世々の人ぞ知る」と詠まれているが、ここで詠まれている「君が代」も帝即ち天皇陛下及びその治世を意味しており、何回生まれ替わっても天皇陛下とその治世の為に尽くすと言う楠公の言葉であり、此れが今日聞かれる事が無くなり死語と為りつつある「七生報国」と言う言葉の原典では無かろうか、現代の政治屋さん達に是非とも持って欲しい心構えであるが彼らの何処を叩いてもそんな心は毛の先程も持ち合わせて無いであろう。
その様な心がけを持ち国政に臨んだ方々は既に「鬼籍の人」となられ、その子孫達が国益を顧みる事無く「党利・党略」「国策無視の政権維持」と言う利権に血道を挙げる「亡者」と化しているのが現代日本の国政に他なるまい。

前述の国旗同様にこれも「天皇個人崇拝の歌」「侵略戦争のシンボル」と断罪し貶める、日教組・全教等の売国労組や反日主義者により誤った解釈を子供達に植え付け、歌詞を教えないが為に、これを従容として受け入れ育った人達が国歌「君が代」の歌詞すら知らない現状を憂慮するものであると共に、これ程に自国の「国旗」や「国歌」を貶めている国民の居る国は世界広しと言えども本当に数少ない、いや皆無では無いのかと考える次第である。

国旗を刻んで党旗を制作した政党が政権与党とは情けない。